はるか昔、職場でご一緒した人に「歩くウィキペディア」と私が勝手に読んでいる人がいました。
休日の趣味はウィキペディアを読むことなんだと勝手に思っていました。
他にも競馬とかの趣味はあるらしいですが、お金がなくて済む趣味として「wikipediaを読む」らしい。
…なので、「〇〇って知っていますか」と聞くと、一字一句ウィキペディアそのまんまの回答が貰えます。
だから、私は勝手に心の中で「歩くウィキペディア」「生きているウィキペディア」と読んでいました。
例えば「シュラスコって何?」と聞くと、
「牛や羊などの畜肉を鉄製の串に刺し通し、岩塩を振って炭火でじっくりと焼くブラジルの肉料理。アルゼンチンなどにも同様の料理があり、チュラスコないしはアサードと呼ばれるんだ」って感じで返ってきます。
国とか地名とか、一般的な名詞だと8割ぐらいは正確なので、、
ほんとびっくりするんだけど、返答がウィキペディアそのもので何だか文章を読み上げているみたい。
なんだか違和感が半端ないのです。
この人が「シュラスコを食べて感動した」とか「シュラスコが美味しいお店がどこそこにある」とか「本場ブラジルで食べたシュラスコは日本のそれとは違って○○だ」みたいな自分の経験に根ざした付属された情報が無くて…しばらくして聞いているほうがなんだかどう反応していいのかわからないという意味で、結構これが不気味なんです。
もっと悪い言葉で言えばウィキペディアでしかない。
それを…蔑むというと違いますが、やっぱりその人の経験って大事だよなと思います。
いくらシュラスコについてググりまくりウィキペディアを暗記している人がいても、シュラスコを1度でも食べた人に情報の質という意味では勝てないのです。
…なので、ウィキペディアの書いていることは正しいが、ウィキペディアの内容だけでは無味乾燥なものだということは肝に命じておきたいと思います。
最近、言葉をまとめるという本来私が事業でやりたかったことをマネタイズできないか模索しているのですが…
別にウィキペディアの情報を参考にしているわけではありませんが、所詮は第三者目線の事典的な知識に過ぎないので、「歩く情報源」「歩くインターネット」みたいになってきている気がするので…お金が少し儲かったら経験にしていく努力はしていきたいな、とは思っています。
なんて名前の起業家か忘れましたが、家族と仕事しながら旅行する!なんてことを理想的な生き方として実践している人がいたけど、まさにそういう生き方は…家にこもって情報収集、情報整理をしている人からすると対照的で、憧れというより「経験がプラスされないとやばい」という焦りみたいなものがあって、それを解消している人というのにどうしても嫉妬ににた憧れを抱きがちです。逆にウィキペディアな人はちょっと微妙。まあ、何も知らないよりは…いや、知らないほうがいいくらいかも。
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