この対談は私が生まれる約20年前のときのやつだ。いきなり大江健三郎のぶっ飛んだ話から入る対話集である。今こんなこと言ったらXは大炎上だろう↓
大江健三郎「ところが、大衆運動というものは、ある段階では非民主主義的なテロ行為が必要である場合もあるわけです。個別的、偶発的なテロはいけないけれども、若い人間の運動がある頂点に達したとき、一種の集団的なテロ行為に移ることは、ぼくは避難されるべきではないと思いますね。」
江藤淳「たとえばどういう…?」
大江健三郎「たとえばデモ隊が岸首相をとりこにして、引退するという言質をとったとする。殺して。はいけないけれども…。そういうことは、非常に有力な中核団体によって指示されて、規律正しく行われるならば、ぼくはあってもいいと思う。」
江藤淳「ぼくは反対だ。(中略)」
『全対話』大江健三郎 / 江藤淳 (中央公論社)
大江健三郎が安保に反対しているのだが、そのためだったら民主主義を否定してもいいというニュアンスを含む、左派の過激派っぽい考えの開陳。前半の流れから言えば「(安倍晋三の祖父である)岸信介なんか◯ねばいいのに」といいたい、ということ…江藤淳が否定してくれることを分かっていて言っていて、単純にイニシアチブとりたくて言っているような気がしないでもない。
2023年に大江健三郎が亡くなった時、石原慎太郎ほど話題にならなかった気がしたけど何故なんだろう?というのが頭にひかかっている。
早い話が、あれこれ語る人がWebにはいないだけということかもしれないし、それほど語る意味もないということなのかもしれない。
大江健三郎はノーベル文学賞作家だけど、私もそもそも小説を読んだことがないし、どういう思想をお持ちなのかわからないが、9条の会を呼びかけた人で、障害者の子どもを育てて、あとはテロを肯定したような発言をした人だということを知っていた。逆に言えば、それしか知らない。
…端的に言えば左翼的な人なのかなという印象だが、そう決めつけるほど単純な人ではないし、またそういう単純な解釈をしてはいけない人なのではないだろうか?とは思っている。
大江健三郎の特集を読んでこの人は難解で深いなと思ったから、ずっとひかかっている。まあほんとうは江藤淳って人に興味があって、この本を借りたのに完全に大江健三郎に持っていかれてしまったが、小説家対談おもしろかった。
平成、令和の小説が、どんなにに面白いと言われていても、フィクションが前提で仕事の隙間に読むのはいいけど、何かガツンと心を揺さぶるものがない気がして、読む気になれないその理由みたいなのを色々とみつけた。その1つ↓
大江健三郎「(中略)日本の戦後文学の歴史では、観察力が衰弱したかわりに、観察力と無関係な、言葉だけの比喩というものが猖獗(しょうけつ)をきわめたと思う。観察力によって、独自の比喩を発見するのじゃない。観察と無関係に辞書をひねくって、いわば恣意的にきらびやかな比喩をつくる作家がいる。」
『全対話』大江健三郎 / 江藤淳 (中央公論社)
今の小説みんなほぼこれ。作家独自の視点と言っても、言葉がどっかから借りてきたもののオンパレードでただの構造に飾り付けされた何かにしか見えない。
私自身が書くものは、まあそれでもいいかと思っているけど、とりあえず大江健三郎はフィールドワークが足りない。海外にでも1年くらいいけというようなことを言っている。行ったからといって面白いリアリティがそこにあるかと言われるとわからないけど、家にこもっているとどうしても観察が足りなくなる。映画とか見ればいいかもしれないが、それじゃあ創作の中に創作のネタを見つけているわけで、真の観察ではないではないか。と言えば、まあそうなんだけど、別に「真の観察」なんてよくよく考えてみればない(と私は思うし)ので、それでいいか。
西日本にあまり行ったことがないので、青春切符で行くだけ行ってみようと思うが、それすらも腰があがならない。せめて夜行バスで大阪周辺まで行ってぶらぶらしていれば何か見つかるのではないか。
コンセプトカフェって自分の趣味を満たすものと考えられているけど、新しい自分を発見するコンセプトカフェみたいなのないのですか。
コメント