対数関数って、何度やっても全然よくわからない。
よくわからないというのは、結論から言ってしまえば、解法に決まりきったやり方がないという確信を持てないところのもやもやがあるということ。
式の変換の連続が極めて人の感覚に頼った連想ゲームみたいだというところに、「これって数学なんですっけ?」みたいなことをやらされる非スマートなところが、どうもすっきりしない。
対数という概念が理解できないと言うより…黒板の前で先生がうんうん悩みながらなんとか答えを導き出す様に「これって、そんなに数学の先生がここまで努力しないと解けない問題なの?」というスマートさがないということで、随分もやもやするということ…
この鈴木貫太郎の動画を見ていても、けっきょく未知の対数の桁数を求めるにあたって…色々と闇雲(という表現が適切であるのか良くわからないが)さほどスマートではないように見える。
対数という記号を決まりきったルールに沿って変換を繰り返すことによって、答えが導くことができるのだということが分かる。問題の解き方そのものよりも、このテンションで問題をとき続けられる理由が、良くわからない…このテンションの維持の仕方を教えて欲しい(苦笑)すなわち、数学の先生ですら、あれやこれやとやりながら、問題を解くしか他にない…というのが、この手の対数の絶望的な自分に課せられた課題なのだ…対数の問題に回答する私達も同様に愚直に「スマートではない知能が低い私もそのような操作を試行することこそ」を問題を解く今私が違和感なく飲み込む…自分ができる自分が取りうる値の最大限なのだ!と割り切らなければならないのだ…。
もっと天才的にスマートな方法がある気がするが…
それを諦めることが対数を理解する最高な、
凡人がとりうる方法なのだ…。
対数と向き合い問題を解くメソッドは「それしかない」のだ…と割り切るしかない。
見えない苦労しないメソッド=数式が、あるかもしれないという、
淡い期待…その妄想が、自分が対数を苦手とする意識そのもの正体なのかもしれない…
ということに今さらながら気がついた…
大人(?)になった今私はスマートでないことでも解ければいいじゃないかと、
プライドを捨てて諦めるということによって、
もしかしたら対数に相対できるのかもしれない。
これはなにも対数だけに言えることではない。
年をとったからこそ無用な考え=妄想を捨てて前に進めるという
極めてポジティブな出来事なのだ(たぶん
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