安直な結果論なんていらない。死ななきゃ過程に過ぎない。

私は車に乗るのが嫌いだ。
交通事故で死ぬことが何度も頭によぎるからである。
車は死亡率を上げる要因になる。

…なんて言ったら「へたれ」と笑われたことがある。

でも割とまじでそう思っているところがある。

あなたは死にかけたことがある人はいるだろうか?

交通事故にあった?病院でがんが見つかった?

そこから結果を取り出して、いったい何になるというのだろうか?

死ぬか生きるかわからない問題について、結果論は語れない。

「ほれみたことか!」と結果論をいうやつもいる。

思ったとおりだと思ったら、「しめた!」と思って得意げに吠える。

その当事者が、死んではもともこもないものの、
その結果から学んで、変わっていくかもしれない、可能性を見ていない。

状況は常に変わっていく。

つまり、再起可能な場合の結果論は、当事者にとっては過程に過ぎない。

次の成功のために、切り替えていける人に、結果論は不要である。

現状把握以外の分析は結構だが、結果論による断定は往々にして無駄。

人間50年ならば40で行き方が決まるかもしれないが、
人間80年ならば70とは言わぬとも60ぐらいまで挑戦者。
人間100年ならば90とは言わぬとも80ぐらいまでは挑戦者。

なんていうか、これは気の持ちようとかいう精神論とか自己啓発じゃなくて、
長寿を作り出して誕生した我々現代人に課している業みたいなもで、
この事実は死にたい人からすれば絶望的な束縛でもあるし、
いつまでも輝いていたいと思う人にとっては希望的な自由でもある。

我々は生きている間はよく生きていかねばならず、
現代にマインドを合わせざるを得ない。

この時点で、私は生に消極的だがw、
絶望的な束縛ではなく希望的な自由だと捉えたい。

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