キリスト教はアンチ・ヒューマニズム…だがそれがいい!!って花の慶次みたいな言い草ですが…人間の社会の価値基準で生きるのが疲れてきたので、というかもともと10代の頃から疲れていたので、人間の社会から離れて神話の中つまり人間の力が及ばない世界ならなんでもいいな別に人が創った世界であってもゲームでも映画でも何でもいいけど人間嫌いが人間が創った世界にいるっていうのは矛盾する気がしていてだったら神話も人間が創り出したモノと言えばそうかもしれないけどまだ神秘的な余地が残っている気がするじゃない?気がするだけだけど、神仙でも神仏でも物の怪がいるような世界でも何でもいい。日本人ならば多神教だよなと思い日本の神々やギリシャの神々を学んでおります。で、最近あらためてキリスト教もいいなと思った。以前にキリスト教はアンチ・ヒューマニズムの宗教である、ということは佐藤優の本で見かけて頭の片隅に入ってはいたのですが、ここ1週間くらいアンチ・ヒューマニズムな教えの良さについて吟味して、自分なりの臆見も含めてアンチ・ヒューマニズム性のある世界っていいな、と改めて思い直した。
キリスト教はアンチヒューマニズム
日本では、キリスト教が近代主義と神話的で、知的な宗教であるという印象があります。これは、現代に影響を与えている日本のキリスト教が、明治期以降、日本の近代化の過程で導入されたからです。このキリスト教は、啓蒙主義の嵐をくぐり抜けて、近代的な世界観と折り合いをつけることに成功したキリスト教です。もっともキリスト教が啓蒙主義とつけた折り合いは、表面的なレベルにとどまり、神学的に深く考察すると、キリスト教は人間の理性と衝突します。キリスト教は、人間が原罪を持っていると考えます。それですから、人間が造り出した文化や社会制度に肯定的価値を付与することは、根源においてできないのです。キリスト教の本質はアンチ・ヒューマニズム(反人間中心主義)なのです。日常用語では、ヒューマニズムには肯定的な価値が付与されます。しかし、神に触れることのない、人間だけのヒューマニズムには、いささかの肯定的な価値も付与されません。『神学の思考』(佐藤優)
けして哲学や思想という括りで語られる時に肯定的な意味ではなく逆に否定的な意味で用いられるヒューマニズム。というよりも、人間的な価値観というものがキリスト教的に二の次なのではないか。神の啓示と人の指示があったら、一神教の人は前者を優先する。神というものがいないと思っている現代日本(人)社会において法律があろうがなかろうが人間が創り出した社会に生息していると思い込んでいる。というか無神論者を自認しているみんなはそう考えているに違いないから、そういう考え方をすると現代はとても息苦しい。リリー・フランキー「鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと俺は友達になりたくない。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと」なんて言っている余裕は私にはない。私なりの言い方では、鬱は鬱のままにしておいてはだめで、正しく逃避行しないといけないといけない。人間が関わっている以上、そこに人間が関わる固有の面倒くささがある。その面倒くささに向き合うのか誤魔化すのか逃避行するのか何もせずそこに居座るのか人によって態度は異なるが避けて通らないとだめで、人間が造り出したいい言葉なんかインチキだ。だって人間の価値系にあるんだから当然だ。リリー・フランキーが嫌いなわけでも彼の言葉がダメだというわけではなく、むしろXで見かけて「ああ、いい言葉だ(そのとおりだ)」と私は思ったのだが、でもこれもまた人間の声だからなあ。なんて思ってしまった。
…まあ、現代日本人はキリスト教をインチキだと思っている。「支配階級が奴隷を作り出すために使ったもの」とか「心が弱い人が拝むのが宗教」とか「神なんていない」とかとか。キリスト教の信者は全人口の1%ていどであり、一部のインテリに支持された系譜の中で密かに息づいているだけ。意識が高い親とかの影響で教会に通っているというのも私の日本人的な偏見かもしれない。非キリスト教の日本人に唯一神の事を語ったところで、まず話が通じ合わないだろう。先の引用でもそのニュアンスが書かれているが、日本で息づいているキリスト教の精神は日本人に都合よく改変されたもの(だからこそ、日本で生き残っている)で、それがキリスト教の本質ではないとは言えないかもしれないが(正統なキリスト教なんてものは存在しないらしい)日本的キリスト教がキリスト教のすべてではない。だから彼ら日本的なキリスト教にキリスト教はアンチ・ヒューマニズムだと言ったところで会話にすら為らないだろうし、そんな話をしだすのもイタい人だということになる。そんなんだから日本でキリスト教を語ることがそもそも難しいわけだ。
まあそれはさておき、アンチヒューマニズム的なことこそがキリスト教のいい意味で人間臭くないいいところだというのは確かだ。キリスト教でも神は父親に類比するが、これは人間的なものであるという説明なのであってけして神は人間的なものあるという解釈はしないらしい。創世記でも神は自分に似せて人を創ったとあるから人間的なものを私は想像してしまうのだが、神学を学ぶ人の頭の中ではおそらくだがそうはなっていないらしい。
というわけで非人化するために私はキリスト教の回路を脳内に形成することが急務になった。
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