どっかのyoutuberが、自分と一緒に動画に映って好き放題な事(というか正論)が言える立場にあるのは、中小企業の社長かキャバ嬢くらいのものだというようなことを言っていた。
それで、あ、なるほどなーと思った。
そういうものかと、感心した。
ということで特に話をまとめることを期待せず、その「感心したこと」について、適当にぶらぶらと宛のない散歩のように行き着く先がどこかを考えずに書いてみようと思う。
自由な発言が許されたり仕事に成る人がいる
自分が最近好きなことを言ってもやっていけると勘違い(?)しているのは、複数の収入を作りながらなんとか生きていこうという道を志向しているからだと思う。
(誰も興味を持ってくれていないというのもある^^;)
あとは、立花孝志や丸山穂高などのN国議員を見ていると、この人達も好き放題なことを言える人に含まれる気がする。
あとはお笑い芸人や落語家なんかも、事務所の意向を気にしながらも柵(しがらみ)がない発言が飯の種にもなり、自分の好き勝手に言える人の部類に入るのではないかと思う。
一方、好きなことを言わず、何かを仕出かさないことが仕事になり株が上がる小泉進次郎という議員もいるので、あくまで国民が認可した「毒」を吐くことが国民に期待されている議員であるという必要条件が満たされていないといけない。
…国会議員とは、とても不思議なお仕事である。
まあとにかく、国会議員にもキャバ嬢にも色んな意味でなれないので、好き放題に言って許されるならば、独立した事業主であるしかないんだな…と、改めて自覚した。
…好きに発言するために独立したというのも、1つもっともな理由になるのではないかと思う。最近、なぜ独立したのかみたいなことをサラリーマンな人に聞かれると答えに窮するので、何かもっともらしい理由があればいいと思っているんだけど、これが別にないんだなー。あー困った。
端的に労働契約化にあるという意味のサラリーマンは、自分の発言のほとんどが組織人としては望まれていない(というかリスク)ということを受け入れている。
だが、これがそもそも大きな問題だと私は思う。
なんかつまらない感じしかしないので。
自分の意見をすることががそもそも嫌いな人
ブログなどで自分が誰かに伝えたいことを書いて収入を得るという方法もある…競合は多いがAdSensなんかやアフィリエイトで小銭を得るのはそれほど難しいと言うほど難しくはない。生活できる分の利益を誰もが稼げるかと言えばそれは難しいと思うので、簡単だと言い切ることはもちろんできないんだけど…
公務員で人に伝わる文章を書く仕事をしていたので「文章を書くのが得意!」と言っていた元公務員の方がいた。
「じゃあ、ブログでも書いたら?」と提案してみた。
ところが、この人の場合でなくても断り文句で必ずと言われるが「自分には誰かに伝えるような内容がない」というのと「自分のことや考えを書くのが好きじゃない」と言われる。嫌いなことを仕事にすることはできないから「ブログで生きていく」youtuber的に言えば「好きなことで生きていく」というのは、そういうひとにはどだい無理な話なので。強いることはできない。
自分の考えに価値はない
ブログはコンテンツビジネスだから、自分の発言に価値がなければ…それを見たいと思う人がいなければお金にならない。
この考えは正しい。
ただ、それ以前に、発言した内容を留めておきたいという願望が誰もがあるもんだと私は思っていた。実際そうでもないらしい。逆に私なんかは、すべての思考の流れを時系列に文章化できればいいと常々思っているくらいで根本的に違うらしい。違う人が多数派らしい。
だから、文章を書かない理由や書けない理由ががそもそも私にはない。
もっと自由な発言をしていけばいいのに。文章を書くのがうまいと自分で思っているのに、伝えることもないなんて、すごい不幸な人だと勝手に思ってしまう。
若者は自由な発言が実はしにくい
組織人として個人の業務外活動が、組織人の行動として見られてしまうという現実を、みんなとらまえて生活している。学生なんかはよりデジタルネイティブでSNSに情報をオープンにしているような印象を抱くが、就活を早い段階から考えている真面目な人は企業や官公庁(就職先)にエゴサーチされて見られないように自分の情報は漏洩しない。自分の情報をWebに晒すのは汚点にしかならないと心得ている。私には保守的すぎないか?と思うが、一方でまっとうというか正しい選択をしているなと思う。ただ、なんか面白くない人というか、生き方だなと申し訳ないけど思ってしまうけど。
自由な発言が許される職業形態
本音を出さずに生きることを強要されている人々の数を試算したことがないというか、どう試算するのが正しいか「本音を出さずに生きる人」の定義をしきる自信がないため、正しい数字はわからないのだけど人口対比9割5分は軽く超えるだろう。なんとなく本音を出さずに生きている人は、なんとなく多い。
独立した個人事業主とキャバ嬢(キャバ嬢は正社員ではなく個人事業主カテゴリだが一応明記)と一部の政治家と一部の芸人だけが本音を仕事にできる。
あとは一部のジャーナリストや一部の芸術家とか、限定された人々だけが自分の言葉で話をすることが許されているというか望まれている。
匿名性の不自由さ、実名で責任が伴う自由さ
インターネットもあるし姿を隠して匿名で発言する活動も、もちろん好きな発言ができると考えられるが、自分ではない=匿名の人が話している時点で、それは、自分の声ではない。少なくとも客観的には、ただの匿名の声だ。
是か非かは問わないが、自分の声で発言している責任が伴うこともまた、自由の要件だと言いたい。
自分であるという主語は、好きに発言できるということの必要条件だとは言わないが…それは発言出来る人が決めればいいことだ。だが私は匿名性の発言は、どことなく虚しさを私自身は覚えていた。
匿名でブログを書いている時点で「何かが違うんだよな」と思っていたが。そこには責任を持った発言をするという自由性がないからだった。
不自由さから自由を望む志向性は常に価値を生む
警察官がコンビニでジュースを飲むことも許されないことと同様、会社員は業務時間外もyoutuberで好き放題に言えない。
組織という不自由さから自由になりたいという願望は、多くの人が持っていて、その動きはこれからも加速する。
それは好き放題に言える人からすれば、不自由さから自由の向きにベクトルが向いているので、お金もこの向きに流れるということ。
ロックンローラが叫ぶ、自由へのあこがれ、己の魂の解放は、抑圧された人の希望になる。金になる。価値がある。
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