世の中とどうにか折り合いをつけていかないと生きていかれない。
…そんな世の中のほうが間違っているという確信を、私は心のどこかに持っている気がする。たぶん、今までもこれからも、そういう感情というか信念というか、その手の想いは消えて無くならないのだろう。
…別にそういう感情を無理に消す必要もないに違いない、と思っている。
だからといって、それを全面に押し出せば自分らしさとやらが発揮できて良いのだ…という風にも思っていないのだ。(本当です)
だからといって、その性質を押し殺して出さなかったり、それをゴミ箱にポイっ!と捨ててしまうこともできない。その声質を殺したり捨てたりしようとすると、逆に変な人に見えるらしい。その変は実に悩ましい。(まあ最近は悩まないけど、昔よく悩んだ)
だからといって、「自分を演じている」などと言えるほど、私は名俳優に徹することもできない。その手の集中力があるはずもない。そんな集中力が続く人間であるならば何も苦労はしていないだろう。その手の集中力がある人は集中力があることが才能だと思っておらず、誰もがそういう才能があると思っているところが厄介だったりする(苦笑)。彼らは、とても私達が真似できないことを要求したりアドバイスしてくる。まあ、私もきっとあなたが真似できないことをアドバイスしていることもあるだろうから、お互い様だけど(苦笑)
念の為に補足をしておくと”ありのままでいい”とか、”じぶんらしさ”とか、そういう言葉が心地よい人もいるのであれば、それはそれででいいと思っている。私も”ありのまま”という言葉は嫌いじゃない。ただし、”じぶんらしさ”と言われると「はぁ?」と言いたくなる。じぶんなんてものの定義は本来できない…というのが私が(今のところ)行き着いている結論である。自分は定義不能なので、自分らしさもクソもあったものじゃない。
自分は”こういう人間”です、なんて言い切るのは間違ったことを平気で言える…じゃなかった世の中的にいえば”真っ当な人間”が言うことであって、私なんぞが分かった風な口で言うもんじゃない。断定できないものを断定するのは恐ろしい。…だけど、言わないと分からないので仕方なく自己紹介をする文章を頭の中で考えてみたりするのだが…もともと自己紹介なんてできないと思っている。(”自己紹介文を作るのが難しい”という考えを持つ人と異なった理由で自己紹介文を作るのが難しいと…私は考えている)
最後に言い訳をしておく。”ぼくは苦労している”と安易にカミングアウトはするもんじゃない(らしい)。世の中の人は「誰もが苦労している」と思っているから、苦労話で取り入ろうとか、なにか恩着せがましいことを言っていると身構えてしまう。相談する方は相談するほうで、それが人間関係の構築に使えると分かると使おうとすることに躊躇しなくなり、逆に相談なんて無駄だと思い込めば「相談しない人間」が出来上がる。どっちに転びすぎても偏った人間になるだろう。(ただ、私もこの辺の事情がよく分からないので、こんどもう少し詳しく言語化をしてみようと思う)
…以上。ここまで、頭の中の壊れたラジオが、自分なようで自分ではない…自分を表現しようとした言葉を、止めどなくなく流し続けているだけだったりする。
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