考えるという行為は、最終的に決めることだ、と言う人がいる。
「考える」ことに決める行為が伴わないと「思う」「想う」のと、なんも変わらないからだそうだ。
…まあ、言っていることはわかる。一理あると思う。
「あなたとは違うんです、私は考えています」という行いに、なんらかの結果が伴っていなければ、考えていないことと変わらない。
…だが、私はあえてそれに意義を申し立てたい。
考えていないということは、あくまで客観的な観察に基づくものに過ぎないのではないだろうか?
それに、決めることを前提に考えるということは、結果的に考えの幅を狭めることにならないだろうか?
まあ、現代は何でも結果を出さなければならない時代であり、選択と集中を繰り返さなければならない。選択して集中するということは確かな結果を選び取ることであり、集中するということは選び取ったものに対しての集中にほかならない。そうしてアウトプットを出さなければ、ただたんに無意味で無価値なのだ。だから、私たちは考えた結果すぐに吐き出さなければならない。
それは、早ければ早いほどいいと言う。
でも、そんなんで本当に考えていると言えるんですか?
私にとって、考えた結果というのは、思ったついでにたまたま取り出せた副産物的なものじゃないかと思うところがある。キャピタリズム的な匂いがしてインダストリアルに生まれるべくして短期間の内に出力されたものは、もうその時点で無価値なのではないかと、思う、考えが、在る。
思う → 考える → 在る
この自然現象に身を委ねるには、結論を急がない多大な思う時間が必要だ。
現代はそうやってゆっくり考える時間を過ごすには、どうにも窮屈だ。
そういう意味で、とても「考える時間が足りない」
早く回答を出して結果を出したいから「時間が足りない」のではなく、自然にありのままにそのまま「考えたい」から「時間が足りない」スキマ時間を見つけて効率的に考えるなんて、私から言わせれば「偽物の考える行為」だ…などと、スキマ時間を見つけて考えている。我ながら矛盾している。そうやって考えあぐねいているのは現代に置いて無能であると断定されるがあえて言っている。
はやく、本当に考えられる人に、私は成りたい。
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