最近はスピリチュアルな本とかを読んでいたりするせいか、魂とかカルマとか言っていますが…まあそれがあるのかないのかは、わりとどうでもいいことだと思います。
結局は、意識の向け方の問題に過ぎないと思います。
…最近そういうふうに考えるようになりました。そのことをちょっと書いていきたいと思っているこの頃です。
株式投資ネタでもいいけど、スピリチュアルってネタが尽きないですし。スピリチュアルネタは無尽蔵なところがある。イエスの愛のようだ。無尽蔵に湧き出る泉。素晴らしい。
※ここで一言。スピリチュアルの記事を書く時に「悪い人に騙されないでね」と前置きするようにするのですが、今回もしておきます。輪廻やカルマを持ち出す人は、基本的に危険です。(私も危険かも)でも、基本的に危険なだけであって、別に何がどう危険であるか知っている人には問題がないし、輪廻やカルマを説くことそのものが、危険だったり悪いことだったりするわけではありません。
あと、哲学と違って…少しぐらいおかしなことを言っていても、スピリチュアルというだけでおかしいと思う人の誤解と偏見は解けない。個人的には、そのへんをいい意味で割り切って書くことができる。
…これまで私は、論理的矛盾や非科学的なことを否定することに意味があると思っていました。
若者ゆえの合理性というか論理武装といいますか、それは大切な精神ではあるのですが。
なんか、疲れるし(苦笑)捨てたほうがいいな。と思うようになった。
で、捨てることを選択する合理的理由が必要になったので…それを、非論理的なモノであるスピリチュアルに見いだそうとしている感じです。うん。なんか全体的に矛盾しているな。ま、それはさておき、、、
そういえば以前にもよく考えて「そうしていた」のですが…最近やめていて、やはり「そうしたほうがいい」と思うことがあります。
それは「自分の体は借り物だ」という意識を持つことです。
精神の肉体は分けて考える
精神と肉体が切り離せるかどうか?つまり魂があるかどうかはわかりません(魂があるのか分からないと言っているひとがスピリチュアル好きを名乗っていていいのかちょっと謎です)が、精神と肉体は地続きでしか成り立たないようでいて別の機関だと思うことがあります。
運動不足なのか加齢なのかわかりませんが自分の思い通りに動かなかったりすると、精神とは別の何かだという思いがいよいよ強くなってきます。極端なことを言えば、肉体が思い通りに動かないから魂の存在を信じるようになった、という感じでしょうか。
まあ、それは自分で言っていて極論であり説明のために言っているに過ぎないでが、、頭痛の時に頭をパカっと開けて、流し場の冷水でジャブジャブ洗うか、脳みそを新しいモノにグレードアップして付け替えられたりいいのに(コンピュータのハードディスクを交換するように)と思うことがあります。そういう意味で、肉体っていうのは、魂の有無に関係なく、限りなく物質的な代物に過ぎないんですよね。
医療の発展で臓器移植できるパーツは今後も増え続けていくだろうし、整形して顔を自由に改造することもできる。右手とか左足とか肝臓とかは自分ではないわけです。少しくらい切り取っても生きているからです。じゃあ、心臓と脳みそは外せないから自分であるか?と言われれば外せないだけで、外せるようになったら自分じゃないですね。あれ?自分ってどこにいるんだろう。。
早い話が肉体は自分の精神とは限りなく関係がないものなのだということ。
「心が大事」だって言うのは「肉体は二の次だ」ってことですよね。
…てことは、肉体なんてどうでもいい。これは別に、自分の体をいい加減に扱っていい!と言いたいわけではなくて、その逆。できるだけ長持ちするように精神のためにうまく動くようにメンテナンスをしたり休ませたりすることが大切ということになる。
現代にその精神がいるかどうかは分かりませんが、いざというときには失う覚悟で行動することを辞さないという精神を是とするダンディズムもあるでしょう。吉田松陰「諸君、狂いたまえ」的な…ま、これも別に肉体を粗雑に扱えと言う意味ではなく志を為すための精神性のためには命を惜しむなという意味では肉体の喪失(ひいては魂の喪失)を超越せよという意味では精神至上主義なわけです。したがって、肉体あっての精神ではありますが、精神あっての肉体と捉えたほうが、あらゆることとまでは言い切れるかわかりませんが、多くの場合において理にかなっていることが多い気がします。
自分の体に命令して動かしているだけ
頭の中にいる小人がいて、自分の体を動かしている…という感覚は、特別に説明せずにも分かってもらえるでしょう。
「自分が動く」のは「自分が命令しているだけ」だということです。
「ゴミ捨てに行ってきて」「牛乳とアイスを買ってきて」と言われたら、なんで俺がやらなくちゃいけなんだ?面倒くさいなあ、と思わず…
「(自分が誰かに借りている体よ)ゴミ捨てに行ってきて」
「(自分が誰かに借りている体よ)牛乳とアイスを買ってきて」
…と命令して動いてもらうようにすると気がとても楽です(実際に、試してみてください)自分の体に命令をリレーさせて実行しているだけです。自分の体のマネージャーやっている感じですね。これで他人の命令に失敗しても、実行しているのは俺(本当の自分)じゃないので、間違って牛乳と卵を買ってきて怒られても大丈夫です。
「(実行したのは俺じゃないからなぁ…まあとりあえず自分が誰かに借りている体よ謝罪しておいて)ごめんなさい」って具合に自分の身体を動かしておけば、失敗したのも謝罪したのも本当の自分じゃないので、プライドが傷つきません。
こんなんでいいの?いいんです!
…なんだか無責任な態度と感じるかもしれませんが、結局は気の持ちようだから…これでいいのです。
牛乳とアイスを買うのを間違えたことを、自分のせいではない!と心の中で思っているやつなんて、なんだか信用できん!と思う人がもしかしたらいるかもしれません。
だったら、こう言い換えてもいい。「(”牛乳とアイス”と書いたメモを残すように、あいつに命令しとけばよかった)」
私が重要だと思うのは「自分のせい」にしないことです。また、同様に「相手のせい」にしないことです。自他を問わず誰かのせいにするから、人間関係は疲れるのです。そして、期待して行動するから、疲れるわけです。
例えば、自分が汗を流したのにないがしろにされた!みたいなのは、期待していたからですが、自分の体に命令されてそれとなく身体にやらせたことなら、思った結果にならずとも「ま、身体がやったことで、私の精神とは関係ないしな」と割り切れます。
…これは別に特殊なことではなくて、簡単に言えば”瞑想”です。
身体行動(と身体反応)を、本当の自分の思いとは別に分けるという訓練の結果、このようになります。
…離人症とでも言うのでしょうか、やりすぎると頭がおかしくなるかもしれませんが、基本的には極めていって問題ないと思われます。このことについて詳しく意見交換できる師匠がいればいいのですが、そういう人がいないので正しいことなのかわかりません。「性格は変わったね」と言われるかもしれませんが、基本的にいい状態だと思います。
メンタルの不調は自他の心を気にしすぎるために起る
ちなみに別の方法論についても話をしておくと、、、
一神教の信徒は、意識の持ち方が違います。
現実で上手く行かないことよりも、
神様との約束を守っていることのほうが、重要であり安らぎがあると考える。
これでもいいのですが、日本人には基本的に有効な方法ではないと思う。
キリスト教になる訓練が必要。
これは外務省で働く人に聞きました…キリスト教じゃなくてイスラム教ですが、
とあるイスラム系の同僚がボールペンやら文房具を勝手に盗むので困っているそうです。
で、その人が…
「なんで盗むのか?」と聞いたら「そこに合ったら取っただけ」と答えたそうです。
「私が泥棒だと言ったら泥棒だよね?」と聞いたら「神様はいいって言った」と答えたそうです。
何でも神様が基準で良いか悪いかが決まるんですね。
周囲の人間がどう感じているか?が重視される日本人には分からん思考方法ですが、
神と私の間に葛藤はあるかもしれませんが、私と他人の間の葛藤はかなりの二の次になるので、これはこれで人間関係に苦しむ人(というか人間の苦しみの100%は基本的に人間関係です)は、一神教の神を作り上げてしまうのが非常に有用です。
日本人に「ガイジンみたい」と言われるかもしれませんが、ガイジンになればいい。
メンタルを壊さない意識の使い方
よく(楽観主義者の人が)「物事は気の持ちよう」って言いますけど「財布の中に100円しか無い」を「財布の中に100円も有る」と前向きに言い換えるみたいなことが、まったく無意味とはいいませんけど、そういう小手先な取り組みよりも、もっと根本的な意識改革をしたほうが楽になるのにな…ということをよく思います。不快なことに影響を強く受ける感受性が高い人に、小手先だけのテクニックを与えても(使えないので)あまりアドバイスにならないことが多い。。
さて、何の計画も意図もなくこの文章を書いていたので…いつかもう少し推敲しようと思いますが、自分の中に自分を見つけるというのは一種の瞑想的な行いなので、ブッダ的メソッドと言ってもいいかもしれません。(イスラム教徒の人には申し訳ないですがイスラムと言わず信者数が多い)キリスト教と同じ神様に祈っているので、イエス的メソッドと言ってもいいかもしれません。
どちらも理解をした上で日々訓練して行う類のものです。
日本人は多かれ少なかれ禅的な思考方法を身につけているのですが、それでも色んなパターンがあるので幅を広げたほうが精神的に豊かになれるし、また一神教の考え方(自意識のあり方)を学ぶことで自分にとっても異文化交流的な意味でも意義があるのではないかと思う次第です。
新興宗教団体の教祖的に言えば「魂のレベルを上げる修行」が必要…てことになるのでしょうか。いずれにしても、どちらの方法も脳を使うので、定着させるためには毎日の意識的な習慣/修行が大事です。
何れにしても(よい意味で)自分を傷つけない思考方法を、ブッダもイエスも現代に生きる我々に提供してくれている。
私は瞑想を自分なりに学んだ後に現在は意識的にキリスト教を学んでいますが、まったく意識の使い方が違うようでいてこれ目指しているところは同じでは?と思えてきます。少なくとも自分にとって(人類にとってと言い換えてもいいかもしれない)目的地は同じなのでは?と思えています。まあ、どちらも「心の苦痛=恐怖や不安」の除去が根底にあり、2大宗教を求める指向性が”同じ” になるのは当然といえば当然ですけどね。意識の向け先が違うのですが、最終的にどちらも同じような効能(もっといえば結果)が得られる気がしています。
虹川色大の本に、旧約聖書には天国の記述が少ないみたいなことが書かれていて、それが実際にそうなのか一体何でかはわからないし私は知らないのですが、神を信仰する実践宗教において天国の夢を見させることはさほど重要じゃないのでは。天国があるから現世の苦痛を乗り越えられると解釈する人がいるが…、私の感覚的には宗教者は天国の存在を信じているから信仰していない。現在の苦痛から救われたいだけだ。病床で苦しんでいても、別に死にたいわけでも死んでから天国に生きたいわけじゃないだろう。現在の苦痛から逃れたいだけだ。結果として、天国を夢想し魂の永遠性を信じることによって、死にゆく自分を肯定的に捉えられ、神の愛により自分は救われていると思っているほうがいい。
マーケティングにおいて有名な言葉に「顧客はドリルが欲しいんじゃない。穴が欲しいんだ」というのがあるが、同様に「信者は天国に行きたいわけではない。心の安静が欲しいのだ」ということになるのでは。
だから世の中の宗教学者は、仏教とキリスト教の教義の差異性と共通性を見出すことに躍起になるわけで、まあ私も興味があるのですが…空手と柔道の差異性と共通性を探すようなもので、一体それが何になるの?武道を通して何か得たいなら、空手だけでもいいし、柔道だけでもいいし、両方を実践して自分なりに活用してもいい…ってことなんですよ。
…まあ、言いたいことは、そんなところです。
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