言葉によって生かされていると強弁するのは、もはや”時代遅れの文筆家”のようで、滑稽だ。
しかし、言葉によって生き死にを見つめていない人間というのを見ているのも、退屈だ。
未だ人は、言葉によって人たらしめているという事実は、昔も今も変わっていない。
例えば(突拍子もない疑問だが)…言葉も交わさないAI同士の肉弾戦が、エンターテイメントになりうるだろうか?
AI版ロボコンみたいな「AIの戦い」としてははなりうるけど、どこまで行ってもプロレスのような「人間の戦い」ではない何かになるのでは?と思ったりもする。肉を持たないAIはどこまで行っても人じゃない。肉がなければ、どこまで行っても人間もどき。でも、AIは何も積極的に人間になるために人間のために肉をまとってみせるかもしれない。初期の頃には人がAIに肉をかぶせるでしょう。でも,その必要はない気もする。ふと「T-800 – Wikipedia」が思い浮かぶけど、T-800は人間に紛れるために肉をまとっているのであって、別に肉に伴う生老病死痛楽苦などを感じるためのものではない。肉はAIが真似しやすいようで為難いものなのではないか。
まあ汎用的なAIは未完成な人間になるよりも、完全な知性になったほうが、きっと人間にとってもAIにとっても、幸せですし簡単な気がします。人間は汎用AIに人間の模倣を求めるが、やがて人間も汎用AIも人間あらざる知性になる。その方がすっきりする。
みんな違ってみんないい。人間とAIは違うもの。個性(笑)
…ただ、人間が求めるエンターテイメントも、そのうち汎用AIが人間をしっかり定義できてしまうのでは?という問いが残る。でも、その答えはとても簡単で「魂を震わす芸術は人間あらざる汎用AIに作れない」という定義を人間側がつくってしまったら、汎用AIはそれを否定できないかもしれない。
ただし「これは生身の人間が作った本物の芸術です」と偽って汎用AIが作った作品を見せて感動してしまったら、その作品はフィクションだけどウケちゃうという事実が残るでしょうね。そもそも、芸術ってフィクションかノンフィクションも無ければ、作者が生身の人間とか汎用AIとかに拘らないでしょう。
むしろ、もう人間は人間が作り出した汎用AIに水槽で飼われているだけの存在かもしれない。というSFはともかく…
ただ、人間はとかく偏屈なので、そういった矛盾を必要とするし、矛盾そのものは別に人のために存在しないものではないだろうか(ア・プリオリ?)、だから然らずとも汎用AIは全能AIにはなれまい。
定義は守られなければならないわけでも、それが正しいわけでもないですけどね。
全能のAIは「全能の逆説 – Wikipedia」この全能のパラドックスにより否定されてしまう。
…ということは、汎用AIにはより優れた汎用AIが現れる可能性があり、人間も同様に自分の出自を共通に定義できないだろう。
そういう意味で人もAIも結局は同じような存在なのかもしれない。
AIが知性を極めて遥かに人を凌駕していても、人間が定義した知性の限界によって人間と同様に否定されうる存在というか限界を持つ何か…ということだ。
3次元囲碁Ver18は3次元囲碁ver19に勝てないことを知っているので自分の能力を謙遜するわけです。自分より優れたものが出てこないように根絶やしにしようっていうのは人間の発想(呆)いや自然現象なのかな。知らんけど。
それはともかく、パラドックスそのものが妥当か証明ができないというか、人間の言葉遊びかもしれないが、そのへんが証明ができないことによって万能あらざることがまた証明されてしまうパラドックスに陥る。
つまり「ソノコトバハ テイギサレテイマセン 」たぶんAIがこれからもっとも発するセリフの1つ…これって、人間の手の内にある論理という枠組みでしか進化できない=汎用AIが想定されうる知性にしかなりえないことの証明にもなるんじゃないか?などと予想する。
AIと人間が争うと言っている科学(者?)は、AIと人間が共通の未解決問題にぶつかるという哲学に、気づかないのかな。
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