どんな内容なのか存じませんが、例えば寺山修司と言えば「書を捨てよ、町へ出よう」というスローガンがまず第一に思い浮かぶ。
ただ、この言葉もまたたくさんの読書週間によってもたらされたものに過ぎない。
参考「『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの本がある」だから、所詮この田中亮平という人が述べるように、私たちは本を読まねばならないという現実に駆られることに変わらない。
それってどうなんだ?と昔から思っている気持ちがまたなんか強くなってきた。
本を1冊読むと10冊読まないといけない気がしてきて10冊読むと100冊読まないといけない気がしてgitのフォーク型ブランチによるワークフローが脳内ではじまってリンク切れがおきる。ただでさえ脳のワーキングメモリが足りないのだから、簡単に読書スタイルが破綻する…。
今、自分が一体どこにポジションを置いているのかわからなくなる。
そして、そうだ「書を捨てよ、町へ出よう」を繰り返す。
しかし、言葉の無い世界にいるうちにしばらくして書斎の海へ、まただいぶし直したい衝動に駆られる。
文筆家もしくは読書家には、文章というフィクションが無ければ生きていかれない。
文字に呪われた彼らは、文字を媒介にして、また自己を何某か虚飾に彩り始める。
そして、いよいよ胡散臭いやつになっていく。
…いや、自分のことか。
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