キリスト教の愛の正体について、ある人の考察を読んで勝手に拡大解釈してみたメモです。
自分はある心理テストにおいては、愛情がわりと欠如しているタイプの人間なので、愛を語る資格がない気もしますが…ま、それがそうであるとしても、とらえどこのない抽象概念に立ち向かわない理由にはならないわけです。
キリスト者は通底して愛について考えている人たちだと思いますが、仏教の自愛とはまた違うレベルの思考な気がしています。
昨今の状況について言えば…
自分と相手という立場でも、また、社会という全体のレベルで、対話がまったく足りていない。
特に相手側の立場からどうすべきか?、という視点が欠けていることがある。
仮に相手側の立場からどうすべきか?、という視点があっても、販促マーケティングの一種だったりする(汗)
まあ別に他者理解を商売に利用するのは、違法でも倫理に反しているものでもないわけで、経済活動プロセスとして必要な行為ではあるのですが…そこで止まりがちですよね?ていう認識を持たないといけない。
話をまとめると、自分と相手という関係性において…4つの状態(ステータスというよりプロセスと言ったほうが適切かもしれない)がある。
1.そもそも相手のことが分かっていない状態。
2.相手の側に立って考えられている状態(もしくは、自分が相手を知り理解せず、相手が自分を理解知っている状態)。つまりは、一方通行。
3.相手も自分の側に立って考えられている状態。つまりは、双方向。
4.相手と自分がお互いに理解して信頼している確信がある。
理解と言う堅苦しい感じで私の言葉になってしまうが、つまりはそういうこと。
1→2→3→4というプロセスを経ていくし、コミュニケーションが今どういう状態であるか?
明確になる。大体の場合において1が多く、せいぜい2で止まっている場合がほとんどではないか?
(2までは、一応、自分側の努力で達成できるが、3と4は相手側の努力が必要になる)
と言われれば「そうだなぁ」と言わざるを得ない。あれ、これってなんでだっけ?ということを考えることでしか、
人は現在の閉塞状況を打破できないのではないか?
とある大学の広告でうちの大学は「他者理解」の理念を大切にしていると書いてあった。悪くないがこれだと2で止まるんです。3と4を社会のレベルで推進しないと2で止まるのがせいぜい。どうやったら3と4に発展できるのか?これを考えていかないといけない(らしい)。
※記事タイトルの、愛情の欠如。興味MISSING。RESPECT無き自分と他人。これらの3つのフレーズは概ね同じ意味だと思います。愛情がないというのは、興味がないということであり、また尊敬…RESPECTがないということ。
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