ペリーの黒船が来航したとき、吉田松蔭は「どうしても米国をこの目で見たい」と願い、命がけの行動に出た。宮部鼎蔵に「そんなことをすれば獄門首になるぞ」と忠告されても、松蔭は平然としてこう言い返した。
「志士の本願は、獄門首ではあるまいか」
死んで名を残せれば本望だという、どこか達観した覚悟があった。
下田で松蔭は、黒船から降りてきた米国士官に漢語の手紙を渡した記録が残っている。この手紙は、広東人の通訳・羅森(らしん)が漢文を訳し、ペリーのもとへ届くことを願って書かれたものだった。当時の日本人は、欧米人とのわずかな接点を漢文で補おうとしていた。つまり、漢文は国際共通語のような役割を果たしていたのである。
やがて松蔭と弟子の金子重之助は、浜にあった小舟を盗み、黒船へと向かった。通訳官ウィリアムズを通じてペリー側と交渉するが、「外国人としても日本の法を破ることはできない」と断られ、二人はボートで岸へ送り返される。松蔭は覚悟のうえで奉行所に出頭した。これを知ったペリーは、罪を軽くするよう日本側に働きかけたという。
狭い牢でのある夜、松蔭は重之助に尋ねた。
「漢の夏侯勝と黄覇の故事を知っているか」
二人はかつて漢の武帝に仕えた学者だったが、罪に問われ獄に下った。夏侯勝は言った。「どうせ死罪になる身、学問など何になる」と。それに黄覇が答える。「それは違う。孔子も『朝に道を聞いて夕に死すとも可なり』と申されたではないか」松蔭は深くうなずき、「まさにそれと同じだ。我らも遠からず死罪になる。いまの読書こそ、功利を離れた真の学問である。学問とは、こうした時の透明な心から発するものでなければならないのだ」と語った。
重之助は深く感動し、二人は声をそろえて書を読んだと、松蔭は後に記している。しかしその重之助は、のちに萩の牢で病に倒れ、わずか二十五歳で亡くなってしまう。
時代は下って、高杉晋作の話になる。晋作の家は萩藩で中級官僚(将校)を出す家柄で、百五十石。藩士としてはかなり良い待遇で、一人息子として大切に育てられた。
しかし周囲からは「いつかとんでもないことをしでかすのではないか」と心配される性格でもあった。学問はあまり好まず、詩書を読み、詩作に耽る詩人肌の青年であった。
晋作は『常山紀談』に登場する柴田勝家を好んだという。
ある戦で部下の司令官を軍律違反として斬首し、信長が激怒したというあの逸話である。世間では勝家を「融通の利かぬ堅物」と評するが、晋作はそうは見なかった。むしろその威厳と信念に共感したのだろう。
松蔭もまた、長州藩内では「大罪人」とされながらも、その強い意志と揺るがぬ信念ゆえに晋作の心を惹きつけたのかもしれない。彼らの間には、柔軟さよりも「筋を通す」ことへの尊敬が流れていた。
晋作の一歳下にあたる久坂義介(のちの玄瑞)は、武士の身分ながらも藩医の家系に生まれ、医の学問を修めていた。その名「玄瑞」は、まさに医家らしい知的な名である。「玄」は深遠・奥義を意味し、儒学や道教・医学の世界で好まれる字。「瑞」はめでたい兆し・吉祥を表す。どちらも文人・学者らしい命名であった。
一方、「松陰」は自然の風景を思わせる文人の号。
「晋作」は「進み、事を作す」――行動と実践を意味する。
こうして見ると、名前を見ただけで、その人の家柄や志向する生き方が見えてくるようで面白い。
松蔭、晋作、玄瑞。
師と弟子として出会い、そして同じ時代の激流に命を賭けて歩んでいくことになる。

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