『チベットのモーツァルト』は『虹の階段』とともにかなり後追いで読んだと思うが内容はまったく覚えていない。これがニュー・アカデミズムの代表的な書籍なのか、と知ってから、じゃあ古典的に振り返ろうかというノリで『構造と力』の後にたぶん手にとった気がする。たぶん、当時ろくに時間もなくほぼ読まなかったのだろう。出版は1984年。私が生まれた年。地下鉄サリン事件が1995年。関連付けるにはちょっと縁遠いと思うかもしれないが、それは人による。少なくとも私はこの本を重要視している。
高校で習っている微分とか積分が自分の心身に影響を与えるものだ、みたいな確信を、この本をリアルタイムに読んで感じていたら、もしかしたらそういう方向へ引きづられていったのかもしれないと想えば、非常にこの『チベットのモーツァルト』はわりと危険思想本なはず。今読んでもそのあたりの純粋理性から外部の世界へ飛び立ちたい憧れを感じなくはないので、やはりこの本が持つ力は大きい。
「チベットのモーツァルト。だがぼくはこの言葉に、ゴダール風の東風趣味とともに、クリステヴァの東風趣味とともに、クリステヴァの意図をこえていく思想実験への意思のようなものをこめようとした。ぼくは『純粋理性批判』の引力圏内にとどまっている(意外なようだが)クリステヴァのような人が、何の説明も用意しておらず、また何らの語彙をももちあわせていない意識状態にたどちついてみたいと思った。仏教的伝統が空とか無と呼んでいるそのような解き放たれた意識状態にたどりついて、そこから自分と自分のまわりの世界をよりよく知りたいと思った。」『チベットのモーツァルト』
自分の中にある衝動。官能性と暴力性が行き着く先がよくわからない期間が、現代人は無駄に長過ぎるのではないか。こんな言葉が平気で散りばめられているなんて危なっかしい感じしかしないというのは、私が齢をとったからだろう。外側から振り返るカタチでしかこの本を眺めることができないが。
「エレガンな記号の解体学。微分法の官能性。クリステヴァはそれを「チベットのモーツァルトのような」と形容した。意識の表層がモーツァルトの音楽に聞きとるものは、情緒的なモノトーンにすぎない。だが、そのとき同時に、この音楽は静かで柔らかな暴力性とわきたちうねるような律動で、意識の深部を打ちつづけてるのである。チベット仏教の声明音楽の場合も、これとよく似ている。」『チベットのモーツァルト』
そういえば、現代の若者はその暴力性と官能性を、一体どこにぶつけるのだろう?
もはや、バーチャルでしかないのではないのでは?
…それはともかく読み進めてみると、瞑想世界の憧れみたいな内容で本だと思っていたが、チベット仏教のグルは瞑想のなかで見た映像にとらわれている著者をしっかりと戒めている。そこは流石だ。逆にそこがなくなれば宗教本になるわけだから当然と言えば当然だけども、異世界旅行したい人には目がいかないと思う。
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