戯言。私達は誰かのために働くべきか、それとも自分のために働くべきか

徒然草2.0

私達は誰かのために働くべきでしょうか、それとも自分のために働くべきでしょうか

おおよそ労働というものは、誰かのために働くことで対価を得ることですから…そういう意味で言えば誰かのために働くこと!というのが綺麗事なしの本質である!と喝破する人がいるかもしれません。

しかし、自分の利益にもならないとその仕事は長続きはしないと思います。

…世の中にはいろいろな理論があって、どっちつかずの結論になることが多いと私は思うのですが…最近では「自分のために働くこと」が優位にある気がします。

しかし、独りよがりの仕事は相手のためにならず利益が得られないので、やはり相手のために働くと言えるほうが対外的にもいいシーンは少なくないのでは?とも思います(そういう言い方をすると、打算的ですが…)お客さまは神様です!と言い切って働いていたほうがいい業種もあるでしょうし(お客様は神様!という例えは、絶対的にお客様の言うことを聞き入れよという意味ではなく、神様のように大切に扱いなさいという意味らしいです)、ただケースバイケースな部分もあるきがします。

サラリーマンの賃金は「我慢料だ」という人もいます。ただもうこうなってくると、もはやお客様のために働くという意識が薄れて自分のために働くということや、もしくは家族のためとかいうふうにすり替えて日々労働を送っていくよりほかにないわけです。

…まあ、お客様のためではなく、家族のために働くというのも「誰かのため」のうちでしょうが。他にも地域社会のためとか国家のためとか宇宙人類のためとか困っているエンドクライアントのため…などなどといろんな他人がいるわけですが…ちょっと考えただけでも業種や仕事内容や労働者のパーソナリティによって誰のためのかが変わってきます。

結論から言えば、人は自分のためにしか人は働けない

私が無料でメルマガをもらっているTPEというコーチング理論を語るルータイスもはっきりと「仕事は自分のためにしなさい」と言っています。ぼくは自分のために働いている!という人よりも、誰かのために働いている方がみんなに応援されるんだけど、やはり人は自分のためにしか働けません。

これは別にエゴとかそういう次元の問題ではありません。まあ、私の独自解釈であり私の認識を含めて誤解を恐れずに言えば…人が自分のためにしか働けない明確な理由があります。

それは、物事を捉えるにあたって他人の客観よりも先に自分の主観が先行するということ。自分という容器の外側に他人の目という客観が被さって自己認識は成立しています。別に事細かく説明せずとも伝わると思いますが、必ず人は自分というものを経てから他人を想定します。他人や事物に対して、自己が他者ではないことを客観的に認識するという言い方をすると、先に他者が合って自己があるんだという表現をする人もいるかもしれませんが、それは言葉の綾だと思うので深くは触れませんが、とにかく最初の認識をする矢印のベクトルは自分から他者へ出発する…ということは、かならず自己本位であるべきというか、まず自分スタートでしか自分は立脚し得ない。

自分からスタートする矢印を他人からスタートされることを頭の中で想定する…ことはできなくはないですが、もうそれを自分の頭の中で考えている時点で、自己認識のベクトルを否定できない…だから自分スタートで仕事をすることしかできないです。

他人のために働いていると言った時点で中にはマザー・テレサのような人がいるかもしれませんが(でも、マザー・テレサだって自分のために働いていると言ったようなことを言っていませんでしたっけ)

自分のために働け

自分勝手、エゴイスト、自己中、意識高い系…etc…

誰かにあなたは無用ないしは有害だと言われパージされるのか、それとも、誰かにあたなは憐れまれるのか、定かではありません。私も例外ではない。自分で自分勝手だとよく思います。

…でも1つだけ確かなことは、人は「自分のため」にしか働けないということです。そして、自分に自信がない人は、何らかのカタチで自分を信じることでしか救われません。

…最近、そんなふうなことを思います。

徒然草2.0
スポンサーリンク
シェアする
gomiryoをフォローする
ごみぶろぐ

コメント

タイトルとURLをコピーしました