自己責任論ってなんだろう。自己責任論は希望論とセットでないと。

自己責任なんだから放っておいてくれ、と思ったことがある。

私の勝手でしょ。自己責任なんだから、放っておいてくれと言ったことがある。でもこれは、私達は自己責任で行動しているんだ、と言っているわけではない。自己責任なんだから放っておけ、というのと、自己責任と言うなら放っておけ、というのでは、まったくニュアンスが異なる。

個人と責任

個人足り得るもの責任を持つというのは、もっともだと世間では思われているが、個人とか責任とかいうものは難しいものだと私は思う。例えば、会社員が数億円の損失を出しても、会社は従業員に1円も請求できない。過失の責任は会社が負うしかない。

「自己責任なんだから、好きなようにやらせてくれ、失敗したら会社を辞めればいいだろう!」と言う管理職がいるそうだが、それは認められないし、すぐにでも会社を辞めさせたほうがいい。従業員の人生より会社が倒産する方がインパクトが大きいこともあるという想像ができないのだから。

先に述べたことにしてもメタ的に言えることだが、個人が生涯で得る所得の量がその人の価値だと考えられている場合もある。裁判の損害賠償だと、幼児の方が老人よりも生きるゆえに命の価値が高いと考えられている。その一方で、人の命を価値で考えるのは、やめるべきだと考える人もいる。責任の重さを釣り合いに人の価値を天秤に掛ける私の思考にも、もしかしたら問題があるのかもしれない。

個人という幻想、責任という幻想

個人主義が叫ばれて等しく、私も欧米から来た個人主義とか個人の権利という思想は、自らを守るために社会が持つべきルールというか倫理的な考えだと思われているふしがある。ただし、その一方で個人に生じる責任と捉えたり(もしくは、個人の義務と捉えたりしても、この場合は差し支えないかもしれないと思われる)すると、急に重苦しくなる。

個人と言う言葉は自由な行動に伴う義務や責任なのだろうか。自分の個別的性質を世間へ掲げるためには、ずいぶんと我々は重いもので足元を固めている。しかし、これらはもともとあるものというより、あとづけてこしらえたもの。個人なんてものも、そこに伴う。責任というものも、人間の歴史からすると、わりと新しい概念だ。

責任と義務の両方

個人主義の世の中では、責任と義務が自分に課せられているという、自覚を持たなければならない。なんていうと堅苦しくて好きではないのだが、いたしかたない。しかし、個人とか、個人の性質である個性とか、個人の考えとか、個人の行動とか、そういうものを肯定しなければならない場合、それらを我々は受け入れないといけない。

自分の選択、自分の行動、こういうものが、人間社会で生きていく上で必要な場合は、個人の責任や義務を守らざるを得ない。そうして責任や義務を全面に押し出して、これらも一様に肯定しなければいけなくなる。

我々の責任や我々の義務

個人主義を理解していない人に、私達の責任はどうあるべきか、私達の義務はどうあるべきか、そうやって問うときょとんとしてしまうだろう。なぜならそういう人は、義務や責任を考えたことがあまりないからだ。すくなくとも瞬時に関連付けて考えられない。私ですら、自分の責任や義務をあまり自覚していない。あまり自覚していないし、これらは何なのかとらえどころがない。

国民の義務は3つある。教育を受けさせる義務、勤労する義務、納税する義務。概ね、この3つを守っておけば人は生きていくことができるので、たしかにそういう意味では常識的で大切なものかもしれない。一方で、これをなんだか七面倒臭いものだと思ったら、その人は個人主義者ではなくなる。私は学生の時に何でこんなものが課せられるんだろうと思っていた…特に教育を受けさせるとか大きなお世話だ。学校つまらないじゃん。

義務論とか責任論の順番があべこべ

義務とか責任を論じる人は、あんまりこれらのものが好きじゃあないんだと勝手に思っています。特にネトウヨが義務とか責任とかTwitterのプロフィールにカッコよさげに何か書いていたらイタいです。自由のために義務を負う、個性のために責任を負う、こういう風に捉えたほうがまだよいです。まだ、理解されるでしょう。自由と個性が大事、こういう言い方をすると義務と責任がどっかへ行ってしまった気がしてよくない。ではどうすればいいのか。

新しい言い方を考えた

義務と責任が最大の自由と最高の個性を生む…センスねー、我ながらセンスがない。

何がいいたいのかと言うと、自己責任って実は最高なんだぜ!って言い切るには、どうすればいいのか?って方向に持っていくにはどうしたらいいのか?ってことなんだが、これがまた言い方が難しい。責任とか義務なんて考えたくないというか、自覚しはじめると重い荷物みたいなものにしか見えなくなるでしょう。それでも背負わなければならないとしたら、その先にある輝かしい未来を信じなければやってらんないでしょう?

徳川家康の名言に「人生は重き荷を背負いて長き道を行くが如し」と言うものがある。自らが太平の世を築き上げる勝者たりえるための自己分析と教訓である。これには続きがある。全文を引用しよう。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

耐え忍ぶ理由には、輝かしい未来がいる。「梅林止渇」という逸話もある。

炎天下の中、三国志魏国曹操の兵士達が喉の渇きを訴えたので「この先に小梅の林がある」と言って唾を出させて喉の渇きを止めさせた。

私はこの話を聞いて、喉が渇いたら、酸っぱい梅干しを思い浮かべるようにしている。効果はある気がする。

自己責任を死とセットで語る愚

そういうわけで、自己責任は死ぬことと一緒に語られると、だいたい無意味な論争になる。価値観の問題でしょ!で片付けられる。そういう見えない議論になるのはただただ愚かしい。自己責任の先にある希望が語られてこそ、人を活かす言葉になるのではないか。

徒然草2.0
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